野木先生と大学の裁判続報

(2011/01/19)

 野木先生と大学側が争っていた裁判で1月11日に和解という形で決着が着いた様だ。争点となっていた懲戒解雇については、懲戒は取り消すが解雇は認めるという、両者痛み分けの結論を裁判所が判断した模様。
 私が一年前に述べた通り、労働審判事件は労働者に有利に作られており、大学側の勇み足が最後まで響いた格好だ。

 武徳研究所という何もしてないように見える(実際、教職員の殆どが何もしていないと思っている)研究所だし、数人しかいない、授業も持っていない所だから、大学側が直接懲戒処分を下せると勘違いしたのだ。
 しかし武徳研究所は実質稼動してなくても数人しかいなくても正規の手続きを経て開設された附置研究所なのだ。余りにも長く、どうでもいいような形で放置された研究所だったから、存在のない立場と勘違いしたのだろう。

 野木先生自身が学内に要ることは殆どなく、学外での活動が主であったことは本人も認めているところだ。
 野木先生の言い分の「昭和四十八年に自分は柴田徳次郎先生から直接助教授の拝命を受けた」には疑惑が残る。その翌年に徳次郎先生は亡くなるのであるが、その当時は野木先生は間違いなく職員だった。当時は学生課に在籍していた。
 第一、武徳研究所が正式に出来たのが昭和五十四年だった。この時、野木先生は泉先輩等と教員に転向していた筈だ。確かに徳次郎先生は館長という立場で全ての権限を持っていたろうから鶴の一声の任命はあり得たろう。だが幾ら何でも職員の課長で教員の助教授はないだろう。

 本来ならこういうことも大切な要因となるだろうが、今回の労働審判事件ではあまり参考にされなかった。何故なら私が最初から述べてるように学部の教授会を経て了解を得、理事会決定なら有効であったが、教授会の意見に匹敵する中島武徳研究所長が裁判所に提出した文章の中には「在職中なにも瑕疵はなかった」と書かれていたのだ。
 教授会の中で全く問題のなかった人を理事長が突然懲戒に掛けたようなものだ。その後に幾ら不正があったことを積み重ねて行っても徒労に終るだけらしいのだ。例えて言うなら基礎が打てないぬかるみに建物を建てている状況だったのである。

 和解条件の詳細はまだ分らないが、数千万円以上の未払い金、退職金が支払われるらしいから、学校側もそれなりの注文をつけることになろう。ある意味、国士舘の顔のような存在だった野木先生が、すんなり引き下がるだろうか。
 学校側も退職金を払わないというカードを持っていたから強気で責められたが、カードがなくなれば糸の切れた凧のように自由に泳げる野木先生が有利になるところもある。一方大学教授という肩書きが使えなくなれば、社会的影響は否めない。

 学校側も二度も失敗は繰り返さないだろうから、刑事事件にならない為にも野木先生も自覚して欲しい。ここは和解した以上、仲良くお互いに第二の人生を歩んで欲しいものだ。

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