社主の独り言(辛甘)

(敬天新聞8月号)

▼タレントのNさんから何年か前手紙を頂いた時「貴方は現代のカブキ者ですね」と書かれていた。カブキと言われれば歌舞伎しか想像つかないし、歌舞伎から連想すると、動きが派手、遠くから見ても目立つ、時代離れしている、とか、そんなことを言いたいのかなーと思っていた。

 ある日、黒鉄ヒロシの「千思万考」という番組を見ていたら、豊臣秀吉から傾奇(かぶき)御免状を頂いた男ということで前田慶次郎という男の話をしていた。かぶきという字を傾奇と書いていた。ななめにめずらしいと直訳するのだろうか。傾も奇も余りまともと言えない意味を表す。真っ直ぐではない「ななめ」と普通ではない「珍しい」。

 前田慶次郎はチョンマゲを横に結っていたそうで、豊臣秀吉の前に正座する時もそのスタイルを変えず、挨拶は顔を横にして頭を下げたそうである。一歩間違えば手討ち成敗にされる命を賭しての目立つ男の覚悟を実践したのである。その心意気こそ秀吉は認めざるを得なかったのだろう。堂々と天下に我を通したのである。Nさんから見て私が傾奇者に見えたのは、何処かを攻めてる姿を指しているのだろうか、二十年続けている新橋での街頭演説を指しているのだろうか、時事放談を気ままに書いている社主の独り言を指しているのだろうか。実名糾弾の敬天新聞を指しているのかもしれない。いや、私の着飾らない土方スタイルを指しているかもしれない。

 昔安藤昇先生が「白倉の所の街宣車は見るからにボロボロで、あんなボロ車の街宣車に乗ってるのは白倉のとこだけだよ。あんな車で街宣に来られたら怖いより恥ずかしいよな。スモークガラスで中は見えないけど、敬天の街宣車とすれ違ったら思わず、顔を隠してしまったよ。挨拶されたら恥ずかしいからな」と言われたことがある。

 私は仕事の時、どんな格好をしても恥ずかしいという感覚がない。特に着る物に関しては中学校、高校時代は学生服以外は着たことがなかったし、色気が出てきた大学時代でさえ、破れた学ランかジャージ姿で顔は年中赤タン青タンで左右違う潰れた運動靴である。洗練された東京生活には程遠い青春時代だった。

 結局は社会人になってからも壮年になっても熟年になった今も、その延長なのである。今はもう全ての面会者が当たり前になったが、昔は私と会う人達がホトホト困っていた。ヤクザの親分と会う時も、大学の先生と会う時も場所が高級ホテルであっても土方服なのである。最初はモロに嫌な顔をされたが、そんな時「これが私の正装です」と押し通した。本当のところは単に背広を着るより動きやすかっただけだけど。もし私が傾奇者に見えたのなら、東京という大都会に四十年以上も住みながら、全く都会に馴染めない田舎青年の感覚で生きてる姿と醸し出す雰囲気が変わり者に見えるのかもしれない。

▼今号も小沢一郎、鳩山由紀夫のお騒がせお荷物政治家を始め、大津のいじめ問題、原監督の一億円恐喝問題など書くことはあったのだが、気持ちは夏休みであり、八月の暑いときに難しい話では余計に疲れるだけだから、流しそうめんにカキ氷というスタイルで軽ーい話を書くことにした。

 実は私は涙もろくて仕方がない。年を取ってきたから涙腺が緩んできたというより、昔から涙脆かった。人情ドラマを見てもスポーツ感動秘話を見ても直ぐに涙が溢れてくる。しかし、男は泣くな、男は涙を見せるなという風潮で育った環境もあってついつい周囲を気にしてしまうのである。外では勿論のこと、家でさえも誰か居れば、ついトイレに行く振りをして、トイレで涙を流すのである。だから人目を気にせず泣ける人が羨ましくて仕方がない。昔で言えば桂小金治さんである。泣きの小金治と言われ、毎回理由あって離れ離れになっていた家族が再会を果たす番組だった。時には再婚などして逢いに来ない親もいた。見る側から見れば薄情にも見えた。他人には見えない事情があったのだろう。

 最近の代表はアナウンサーの徳光和夫さんだろう。徳光さんも情に厚い人だ。私の亡くなった親爺は徳光さんのファンだった。誰も住んでないふるさとの実家にはツーショットの写真が今も飾ってある。最近では徳光家の変わり者血筋の方が売れてるようだが。

 私の周りにも居る。大学の後輩の西敏彦君と雑誌主幹の寺田利行さんだ。西君は今は居酒屋の店主をやっているが、昔は時代の先端を走った熱い男だった。常に彼の周囲には人が集まり、夢を語る熱血漢だった。結局ヤクザにはならなかったが、もしなっていたらいい兄ーになっていたろう。話をしていると、直ぐに感情が高ぶって涙するのだ。西君に会いたかったら南武線平間駅前の立ち飲み「呑(のん)」に行けば会える。

 片や寺ちゃんは男気のある落語の熊さん八つぁんというところか。とにかく親爺ギャグを連発する。困るのは電話の時だ。サービス精神が旺盛なのか電話でも合いの手を入れる。それも電話に出た瞬間に先にギャグを入れるのだ。こちらが通夜の席から電話しているのは寺ちゃんには見えない。怒って電話を切ったことが何度でもある。それでも寺ちゃんの周りには人が集まる。それだけ魅力があるといううことだ。新橋の万世事務所は仕事師からジャーナリストまで寺ちゃん詣でで花盛りである。企業の担当者も当局に内緒で長く付き合ってくれたそうだ。

 二人に共通するのは情に絡んだ話をすると直ぐに涙を流す。人一倍男気がありながら涙を見せる勇気を見習いたいと最近つくづく思う今日この頃である。だが二人には共通した困った性癖もある。二人とも酒癖がよくないのだ。始めは楽しい酒なのだが、時間が経つにつれカラミ酒になってくるのだ。
 あれも人生、これも人生と言ってるうちに人生って終わってしまうんだなー。四年に一度のオリンピックでも見ながら日本人が活躍する姿に感動し、今年の夏は誰にも遠慮せず思いっきり泣くことにしよう。

▼今、太った暑苦しいオカマがテレビに出撒くっている。オカマがテレビに出るのは今に始まったことではないので別に気にはならないが、それにしてもオカマって何故こんなに多いのかい?半分は営業でやってる偽オカマかな?

 今から三十年くらい前、私もオカマの店を水戸の大工町という所で出したことがある。当時新宿のオカマの店で一番有名だったのは「あべちゃん」だった。二丁目で成功して歌舞伎町まで進出したのは初めての快挙だった。「あべちゃん」にはキレイキレイと言われる、美人を売り物にするオカマもいれば、ブスと話術を売り物にするコミックと呼ばれるオカマ達が多数在籍していた。その中にコミックの代表でマンガちゃんというのがいた。長崎県の五島出身だということもあったので、贔屓にしていた。

 そのマンガちゃんがどいう事情か知らないが、流れ流れて茨城県水戸市大工町のオカマになっていた。ある日突然電話があって、どうしても店を出したいから協力してくれというので、彼の才能を知ってるだけに、支援することにしたのだ。

 夜の店のオーナーになると当時はヤクザが直ぐにクレームを付けてきた。要するに言いがかりを付けて関係を持とうとするのだ。その言いがかりを蹴ったらトラブルになったのだが、その時先頭切って私の前に立ったのが何と高校の先生だった。当時水戸では実力者だった親分と飲んで廻ることを自慢にしていた調子モンだったのだろう。

 あとで聞いたら水城高校の空手部の先生だったらしい。本人が腕に覚えがあったのか、只の酒癖の悪い酔っ払いだったのかわからぬが、品のない男だった。今なら暴排条例で即アウトだろうが、昔は高校の先生でもこのくらいの認識だったのである。堅気の方からヤクザに憧れていたのである。確かあれも暑い夏の夜だった。

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