社主の独り言(辛口)

(敬天新聞7月号)

▼自民党が過去に長く政権を取っていた時代、二度だけ社会党が政権を執ったことがある。その二度目の時、社会党はそれまで錦の御旗としてきた自衛隊は違憲、日米安保反対をいとも簡単に翻した。
 政権を取るという事は、それ程魅力的という事なのだろう。結党以来の金科玉条を翻すのだ、相当の覚悟を意味するようにも感じるが、その揚げた金科玉条そのものが飾り物に過ぎず、軽いという証左でもあるということだろう。

 民主党の政権交代も結局は自民党政権の長年の驕りや弊害に国民が飽きてしまった結果であって、それ以外のなにものでもなかったのだ。誰がやっても全国民を納得させるような理想郷は無理なのである。
 国家観も歴史観も認識の違う寄せ集まりだからこそ綱領も作れなかったのだろう。民主党ではもうダメ、民主党の本性見たり、ということである。政権与党とは、責任を取るという経験と理解が足りなかった烏合の衆は唯一経験者と信じた小沢に期待をしたが、選挙の勝ち方だけを知ってるだけで政治は知らなかった。

 壊し屋の破壊力を創造力と勘違いし、私欲を国民の生活が第一にと隠し続けたが、ボロが出始めた。小沢は自分が政権の中枢に居た時は何もしなかった。体制側から外れると、「増税の前にやることがあるだろう」と抽象的な言葉を繰り返すだけで具体案は何も出さない。
 一年前に野党が出した不信任決議案に賛成を煽っておいて本人は本会議を欠席した。本性は卑劣は男なのである。

 今回も「消費税増税反対」である。これだけなら尤もらしい。社会保障制度も一体改革をする、と言ってるんだから一兵卒として、それを信じるべきではないか。もし守らなかったら、その時に「信義違反」として離党すれば、もっと社会の理解を得たろう。
 自分の思い通りにならない野田総理の足を引っ張ってるだけなのである。そのことに党員も国民も気づき始めた。本人だけがまだ周囲は自分の手の内にあると錯覚しているのだ。
 最大の呪縛解放者は長年連れ添った夫人である。

 四十年連れ添った夫人が、「地元の為にも日本の為にもならない男」と斬って捨てた。この言葉の意味は重い。不倫相手の女が金目当てに発した言葉とは意味が違う。
 裸の小沢一郎を知っている最も内側からの意見である。プライベートなことだからとか、政治とは関係ないからと平静を装うが、政治は執行者の人間力である。何を恐れていたのか、小沢の不正について、今まで政治家が具体的なことは言わなかった。
 石原都知事が唯一具体的に「汚れた金」の部分を表現した。現政権民主党執行部も輿石を除いて、やっと小沢の本性がわかりだした。流石にもう小沢についていくのは素人集団だけになった。今度ばかりは小沢は政党助成金を持ち出すことはできないだろう。

 検察審査会に強制起訴され、指定弁護士に控訴されたボディブローは着実に効いている。それまで声をあげられなかった人達が小沢の本質を語り始めた。
 筆頭秘書が語った「政党助成金持ち逃げ」事案。石原都知事が語った「アメリカに拠出された湾岸戦争協力金の合わない数字」事案。糟糠の妻が語った「原子力放射線逃亡」事案。これらの責任追及が正式に問われる日々がくるだろう。
 小沢は勇退の時期を見誤った。今思えば鳩山が倒れた時、連帯責任として二人同時に引退すべきだったろう。小沢の本当の憂鬱な日々はこれから始まるのである。

▼右翼、総会屋、同和等全てにヤクザからの人脈はつながる。
 これだけではない。表社会にも繋がっている。根はヤクザなのである。右翼でも総会屋でも同和でも、体質的にヤクザを受け付けない正統派と言われる人達もいるが、所詮少数派で業界の体制派ではないのだ。
 ヤクザを制すれば全てを制するというのが現実なのである。何故ヤクザがこれ程強いのか。それは暴力という法を上回る強制力を持っているからだ。生死を賭ける状況が起こった時、法は何の役にも立たない。法が有効な場所は「衣食足りて礼節を知る」環境な時だけである。

 人間の本質の中に、特に雄の本能の中に弱肉強食の観念は存在する。食物連鎖の本能が存在するのだ。
 表社会でもそうである。一流企業の中で体制派になった者が必ずしも正しいとは限らない。
 嘘と裏切りと権謀術数と作意に勝った者が主流となって、正統派は窓際に追いやられているかも知れない。世の中そのものが、そういう場合が多い。偽善者が天下を取り、正直者は中・下層階級に多い。

 心の中に存在するヤクザの血は消せない。従って全てのヤクザの壊滅、排除、追放は無理なのである。だから結社の自由という憲法を自由ではなく制限することによって、人数を制限するとか県を越境してはならないとか、決めれば昔のように仲良くやっていけるだろう。
 三権分立である。ヤクザと民衆と警察の三権分立でうまく行く。何の世界でも一つの業界が抜きん出ると弊害が起こる。憲兵が強くなり過ぎるのも、軍隊が強くなり過ぎるのも、一党が強くなり過ぎるのも、ヤクザが強くなり過ぎるのも、やはり国としては不幸なのである。

 強くなり過ぎたヤクザにも反省は必要である。強くなり過ぎたから暴力団と呼ばれるようになったのである。暴力団の中に経済ヤクザと言われる頭脳明晰な者が出てきたこと、それを利用して伸びてきた周辺者が増えたこと、政治力、経済力を身につけ全国規模になったこと、県警レベルでは手に負えなくなってきたこと。
 昔は山口組が東京に進出できないのはヤクザの力関係ではなく桜田門が存在するから、と言われてきた。事実、警視庁は山口組には厳しかった。しかし山口組の勢いは後退するどころか日の出の勢いで首都にまで進出してきた。

 加えて混乱を強調するように未上場株詐欺、ファンド詐欺、生活保護不正受給等、昔なら手を出さなかったような犯罪にまで手を染めるようになった。もう当局だけでは手に負えなくなって国民に支援を仰いだ結果が暴排条例の創設なのである。
 だが、日本の嫌われ者、ならず者に対する制裁の知恵は完全排除ではなく村八分だった。完全排除は抹殺しかないことが昔の人は分っていたのだろう。
 アメリカに学ぶことはいい。アメリカに指導を受けるのもいい。だが歴史を歪曲したり、文化を否定したりしてはいけない。歴史は連続して続いており、たった一瞬を生きた現代人が過去を否定することは恐れ多いことである。

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