社主の独り言(辛口)

(敬天新聞6月号)

▼大阪市長の橋下氏がヒットを飛ばし続けている。

 ついこないだは教職員の先生たちで式典の時、君が代を歌わない者、国旗掲揚に起立しない者を罰則の対象にしたと思ったら、今度は市役所の職員の刺青調査をした。人権がどうの、プライバシーがどうのと誰も言っていないのに、さも言ってるように質問するマスコミに対し明快に「税金で飯食ってる人が刺青を入れてたら不味いでしょう」と歯牙にもかけない。
 マスコミの顔色ばかり伺って右往左往する政治家が多い中、信念を持った話し方ができるのは橋下市長と石原都知事だけである。だいたい日本では刺青を入れるのはヤクザである。堅気に戻らない覚悟の証として彫るものであって、若者に流行のタトゥーとは意味が違う。一時の気まぐれやファッションならシールで充分である。
 それが直接彫ってる者が一〇〇人もいたと言うし、それも市役所に勤めた後に彫ったというからバカ者の一言で片付けた方がいい。こんなバカ者は辞めさせるべきである。民間で、刺青を入れても大丈夫だよという所に勤めればいいのだ。ちなみに当紙の場合、刺青を入れてても一向に構わない、民間だから。
 どうせなら青と赤を基調とした純和風の彫り物がいい。西洋式のカラフルな配色は直ぐ飽きるし重みがない。と言って受け入れてくれる会社もあるだろう。だけど公務員は不味いよ。公僕だからね。最近はこういう善と悪、是と非の違いとか見極めが出来ない者が多くなった。要は学校教育の中に道徳の教えが無くなったからなのだ。

 日陰で生きてきたオカマみたいな男が出回るようになり、元々持った資質や特質が違うのに勘違い男女平等人権を叫ぶばか者が増殖しているのも原因の一つだろう。国内では声高に騒ぐ者達も何故か韓国や中国の日本攻撃には理解を示す。
 私もチュモンのソソノやイ・サンのソンヨンは大好きだが、国としての利害が絡めば話は別だ。そんな中橋下市長や石原都知事の単純明快な発言は政治家の意味の分からないグニャグニャした発言と違って、分かりやすくスカッとするのである。反石原、反橋下マスコミは、もし反対なら両氏がやろうとしている、或いはやった政治に対して反論すべきであって、重箱の隅を突っつくべきではない。
 不正があったらそこを正せばいいではないか。犯罪が見つかったらそこを追及すればいいじゃないか。大きな立場に居れば大きな利権話も向こうから寄ってくる。誰がやってもこれは同じ。度合いである。身内に仕事を回した、公費で妻をビジネスクラスに乗せた。こんなもの当たり前の話である。要はバランスだ。
 不正は暴いてもいい。しかし橋下市長は知事時代に、慣習と言って誰も手をつけられなかった悪い習慣を暴き、議会の反対、職員の反対を押し切って一人で断行したからこそ府民に信頼され、今では全国民に支持されるようになったのではないか。

 既存権益を持った者からすれば長年培って作り上げた利得権益を壊されるのは嫌だから何が何でも反対したい、自分達の生死に関わるからだ。その制度が今も通用する国民、市民に役立つ制度なら壊す必要もなかろう。
 だが大抵の場合、時代と共に劣化する場合が多い。それは世の中の価値観が変わったり世界の流れが変わったりするからだ。今騒がれている生活保護がいい例だ。大阪府は日本で一番生活保護を貰う人が多い。そのことを橋下知事はいい続けた。
 戦前戦中の教育を受けた人は貰える立場にいても生活保護を貰うことは恥ずかしいと貰うことを拒否した。生き恥をさらすぐらいなら死んだほうがましだというプライドを持っていた。武士は食わねど高楊枝である。この気持ちを男だけでなく女も持っていたのだからすごい。
 それがいつの時代からか貰える物なら恥でも貰えと国民の意識が変わり出したのだ。その危険性に警鐘を鳴らしてるのが橋下市長と石原都知事だ。時にはアメリカナイズも韓流受け入れもいい、だが根っこの部分で根幹の部分で先祖が築きあげてきた日本を忘れてはならない。失くしてはならないのだ。

 石原都知事は戦前派だからもう先は長くはない。国の行く末が心配で助言している。だが橋下市長は国が常識を忘れかけた世代の先頭者だ。その若者の代表が国のほころびに気付き、改めようとしているのは嬉しいではないか。
 何も決められない民主党政治のリーダーに比べればこの二人の言動はさわやかである。民主党は統治能力がない。初めての政権に浮かれているのか初めてのスポットライトにあがってしまっているのか固まりすぎである。
 小沢一郎の嘘八百のマニフェストに付いてきただけだから現実と理想の余りの違いにとまどっているのだろう。小沢の「政権さえ取ってしまえば後はどうにでもなる」というマジックに民主党も国民も乗せられたのだ。勿論その最大の立役者は自民党のおごりと金権体質と官僚政治だったのだから、自民党も反省の上に立って国民目線でいい案には協力すべきである。

▼小沢一郎が政治資金規正法違反で控訴された。当たり前である。真っ黒い無罪だったのだから仕方がない。
 みんなの党の渡辺喜美党首は「指定弁護士はつまらん控訴をした。裁判中だから説明する必要がないと逃げられていたが、やっと逃げる理由がなくなって証人喚問という次のステージに移行できたのに、また口実を与えてしまった」旨の発言をしていたが、これは大勘違いである。
 与党も野党も小沢一人に振り回されて証人喚問に呼び出せないから国民の声が強制起訴したのではないか。小沢に関しては出納帳に記載したかしなかったか、というようなものではなく所有財産の原資を洗うべきで、そしてその財産はちゃんと納税されているのか、とかを問うべきなのである。

 小沢には政党交付金詐取疑惑がある。政党を解散する時、残った金をネコババして自宅に持ち帰ったと元秘書が告白している。これらはみんなで分けるか、国に返すかのどちらかである筈だ。そのことを国会議員が一人として告発しない。何ともだらしない。
 石原都知事は自著の「新・堕落論」の中で、湾岸戦争の折、日本はアメリカに強制的に戦争協力金を拠出させられた。その額百三十億ドルだった。しかしアメリカの公的発表では日本からの拠出金は百億ドルと記載されているそうだ。
 三十億ドルが消えている。当時の金では三〇〇〇億円である。その当時の自民党幹事長は小沢一郎だった。政府は百三十億ドルアメリカに送ったのに百億ドルしか受け取っていないというならアメリカ政府に問い質すべきである、と書いている。国の金を誰かがネコババしていたというなら大犯罪である。
 石原都知事の小沢嫌いにはもっと深い「政治と金」の問題が隠されているのだ。自民党の賞味期限切れの後をついだ民主党だけに国民の期待も大きかったが、その指導者が自民党政権時代の金権政治のど真ん中に居た人物であったことが不幸の始まりだったのである。

 常に政局を作り出すことだけは誰よりも才能のある小沢が自民党の賞味期限切れを声高にうたい、風を起こした。民主党よりは自民党と思っていた我々でさえ自民党の驕り、無駄使い、政官財癒着には辟易していたので小沢が言わなくても新政権樹立は望んでいた。嘘八百並べなくても自民党の下野は自然の流れだった。
 ただ風を起こすには誇張も必要だったのだろう。小沢グループの実体は普段は庭先で米を突いて遊んでいる雀が強い風に乗って飛ばされてきただけで、知らない街で目をパチクリしながらどうしていいのかわかない市井の人々なのである。少なくとも自身の力を評価されて国会へ登ってきた者たちではない。
 数は力、金は力を信奉する小沢の故意的な策が当たっただけであくまで一過性なのだ。恐るるに足らずである。政治は国民の為でなければならない。この国での国民とは日本人のことである。外国に対する友好はいい。中国や韓国に理解を示すのもいい。だが批判されたり挑発されたりしてる時にはそれに対抗する姿勢は必要である。

 中国や韓国は日本に対して毅然とした態度で外交に臨むではないか。その対極にある日本もまた毅然とした外交姿勢で臨むのが当然である。自民党時代は敗戦者の呪縛で遠慮、配慮の連続だった。また外交に出掛けた大臣は必ずといっていいほどキックバックを貰ったりスパイ女を抱かされたりしていた、との証言は多い。これは日本政治の代表であることを忘れ旅行気分で出掛けるからであろう。
 外交に関しては民主党政治家も同じであるが、民主党政治家の中には加えて反日売国的な親中親韓議員が多いのである。だから民主党には任せられないのだ。民主党は解党した方がいい。綱領も作れない程バラバラの考えを持つ者の寄せ集まりだから、いざと言う時何も決められないのだ。せめて外交・防衛ぐらいは目的が一緒でなければ話にならんだろう。
 小沢の口癖の中に「消費税をあげる前にやることがあるだろう」というのがあるが、国民の殆どが「それをお前が言う前に先ず国民に対して疑惑を持たれている政治と金の説明責任を果たせよ」と思っている。
 消費税を上げる前に野田政権がやることは小沢一郎の証人喚問なのである。

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