社主の独り言(和辛味)

(敬天新聞4月号)

▼今、右翼が存在意義を問われている。昭和の時代にはしっかりと認知され、一定の役割もあった。代表的なのは尊皇愛国、反共、北方領土返還、日教組粉砕だった。相手方の弱体化もあろうが、やはりニーズに合わなくなったというのが、一番の理由だろう。戦後が遠くなったこと、国民の不満が少なくなったこと、大物がいなくなったこと、ヤクザが暴力団と呼ばれるようになったこと、その暴力団の傘下、若しくは仲間と解釈されるようになったこと等が考えられる。

 一方で力が足りない時代には、ヤクザに応援を頼んだり、取り締まれないような相手には情報を流して煽ったりしていた警察は、失敗を繰り返しながらも着実に成長し、いよいよ敵味方となって決別して来た。しかしこれこそ本来の姿であって、国と民間の差でもある。個々と知り合いになっても所詮組織で成り立つ上に国という錦の御旗が付いて回るわけだから親しいとか仲間とか考えることは勘違いも甚だしかったに過ぎない。

 民間なら組織ごと潰すことも可能だが、官は個人的に潰すことはできても、組織そのものは潰せない。国から決別を言い渡されることは、壊滅を意味するくらいの覚悟を持って臨まなければならないのだ。

 昭和時代はまだヤクザという言葉が成り立っていた。だが今は暴力団という言葉が様になってきた。暴力団は警察の造語である、という人もいるが、確かに最初はそうだったかも知れない。だが今は確実に社会に浸透しているし、暴力団という名がその組織の存在に符合する。それは今ヤクザと呼べるような人が確実に減ってきてることにも影響する。

 本来日本人は侠客道を持って生きていたヤクザに共感する国民であった。だが国民の感覚がアメリカナイズされたこともあるが、ヤクザ組織そのものが暴力団組織に変貌していったのも事実である。国民は国には勝てないのである。勝つためには自らを改めるか、国民の支援を得る以外にはないのである。

 国も国民も敵に回したのでは行き着く先は消滅しかない。一世を風靡した総会屋も、意義のある運動を展開していた同和組織も、度を越えた存在が国民から嫌われた。右翼は暴力団ではない。仮に二足の草鞋を履いている人がいたとしても、皇室や政治や世の不条理に気になることがあるからこそ、足を踏み入れているのである。

 右翼が歩んできた道にはそれなりの実績がある。存在そのものが警鐘を鳴らして来たし、不正の抑制にも貢献した筈だ。今こそその誇りと名誉に自信を持ち、しっかりと自分を見つめ直すべきではないのか。政治家に歯止めをかけられるのも、意見をいえるのも、現実には右翼しかいないではないか。煩い存在だからこそ、目の上のコブとして邪魔者扱いされるのは仕方がない。それは覚悟の上で生きてきた筈である。

 法律ではないが、命令と罰則規定がある条例まで作って包囲してくる当局の本気度に気付くべきである。この勢いの裏には、当局の背中を押している国民の声があることも理解すべきだ。元より国民運動と言いながら大衆と必ずしも一致はしていなかった訳であり、別段、驚くこともない。国が豊かになり、国民に平均的なバランスが行き渡れば必要性も少なくなってくる。

 それでも必ず右翼の存在を必要とする時代は来る。今は辛抱の時なのである。だが心の奥底に忘れてならないのは、大義の行動を起すことに微塵もの躊躇はいらないこと、そしてその日に備えて心の中の日本刀は常に磨いておくことこそ必要なのである。

▼今の時代、何をやっても儲からない。トントンで仕事ができれば有難いという程、辛抱の時代なのである。私はよく「今儲かってる奴等は泥棒か詐欺師しかいない。儲けのキーワードは詐欺である」という言葉を多用する。しかしこの意味は当らずとも遠からずと思えるような事件に最近つくづく遭遇するのである。

 AIJという如何にも大手の年金運用法人もそうである。二〇〇〇億円を運用していると謳いながら、五〇〇億は粉飾で、一三〇〇億は損失していて、一〇〇億は愛人と二人で隠し、実質残りは八〇億しかないという。詐欺ファンドや未上場株詐欺なら分るが、監督官庁OBが多数天下ってるような基金運用会社である。こんな所が実態は詐欺をしているのである。これは日本人の本質的な資質が変わり始めていることを意味している。一言で言えば、戦後の教育とアメリカ流日本精神破壊の結果である。

 家族の誇り、国の誇りよりも、人を騙してでも金を手に入れることを優先する国民に成り下がったし、それに拍手する国民が増えているのである。詐欺師を軽蔑する気持ちが少なくなった。一番大きな原因は弱者を救う、困った人を助ける、という考えからスタートした法律かも知れないが、倒産したら一切の借金が免除されるという法律や自己破産したら借金がゼロになる法律。借りたら返すのが、原則である。借りて返せなくなったら返そうとする努力もしないで、直ぐ裁判所や警察に逃げ込もうとする。

 違法金利は取るな、強制的取立ては止めろ、位ならいいが、違法金利で貸してた金は元金も返す必要がないというのは過保護過ぎである。度を越えた取立ては、法で裁けばいいじゃないか。別にヤクザや金貸しの弁護をしている訳ではない。この法律が責任を取らない、義務を放棄する国民に拍車をかけたのは間違いない。

 私の父は保証被りをして銀行の借金が終るまで二十年かかった。酒の席で煽てられ保証人になった。後日、借金人が逃げた為、その後の返済を全て負わされた。家族はその後、他人の負債の為に地獄の日々を送ったが、逃げずに完済した。他人の借金だから銀行も許してくれてもいいのに、と恨んだこともあったが、それがその時代の法律だった。

 中には耐えられずに死を選ぶ人もいたろう。夜逃げする人もいたろう。だが債務者、自己破産者に過保護な程優しい今の方が自殺者が多いというのはどう理解すればいいのか。貸し手から見れば、まだ夜逃げでもしてくれた方が納得がいく。借りる時は拝み倒しておきながら、貸し側に不備があるというだけで、開き直って平然と生きられたのでは、人の気持ちも根本から変わって当然だろう。

 約束を守れなかったり、契約を違反したら責任を取るというのは当然である。その結果、死を選ぶ人もあろう。責任の取り方は色々である。責任の取り方こそ、日本人の文化を代表する潔さではなかったか。借り手は借りた瞬間、いい思いをした筈である。美味い飯を食ったり、夢を実現したり、いい格好をしたり、それが一転、返せなくなったら被害者になってしまうというのは道理的には間違っていないか。

 金貸しの違法性は徹底的に叩いていい。多重債務者を食い物にしている奴等は厳しく罰せられていい。だが、「借りた物は返す」という道義を、借りた物でも司直の判断によっては返さなくていい、としたのは確実に日本の文化を変えてきている。何故なら司法を悪用している輩も増えている。又、これらを判断する裁判官も圧倒的に不足している。官を欺く者、陥れる者、裏切る者にはスパイ罪や反逆罪、国家転覆罪、或いはその家族にも不名誉罪とか付けるようにすればいい。余りに犯罪者のプライバシーに配慮し過ぎではないか。

 日本在住コリアン社会では、金を借りて逃げた者は店に置いてあるパンフレット集の中にウォンテッドとして顔写真が貼ってある。「借りた物は返す」のが基本であるからだ。一短一長はある。しかし今、日本の政策は全て過保護がキーワードでそこから詐欺が生まれてきてるように思えてならない。

▼ついこないだまでテレビではバカや間抜け振りを売り物にしたタレントが持て囃されていた。それが今ではバカの方がまだ可愛いと思える程、過激トークをゴールデンタイムに堂々と放映している。自分の性体験を明け透けに話し、「今、五股付き合いしています。付き合いはSEXが目的で三回やったら別れます」とか堂々と喋るのである。

 深夜番組で売れないタレントが言うのは時々あったが、それでも局が気を利かしてピーを入れていた。それが今はこのザマだ。カメラの向こう側には健全に育てなくてはいけない子供達が見ているではないか。こんな女は追放しろよ。

 芸能界のモラルのなさは昔からだが、社会と同じように一定のルールは作るべきである。犯罪者は復帰できないとか、薬常習者はテレビに出さないとか。タレントの母親で息子の友人の十五歳の子供とSEXしたとして逮捕されたバカ親もいた。こういうのはもう病気だから名前をバンバン出して報道した方がいい。

 最近はテレビ局も楽しようとトーク中心のバラエティばかりで、これでは韓流に負けて当然だろう。そのくせギャラが高過ぎ。安っぽい芸人と言われるような連中が給料五〇〇万、一〇〇〇万というのだから、非常識過ぎる。こいつらを調子に乗せるべきではない。きつく苦言を呈したい。

 昔は番組や個人で社会に悪影響を及ぼすと思うようなことを感じたら直ぐ右翼が抗議街宣をしていた。その行動は確かに一定の評価を受け、着実な効果もあった。

 今は攻める側にばかり非があるような捉え方をする為、攻める側にも元気がなくなってきた。それでも不条理、不愉快、不正に対しては、これからも迷わず、抗議は続けるべきである。それが一定の歯止め、反省、見せしめにはなっているのだから。

敬天ブログ敬天新聞トップページ敬天千里眼社主の独り言