▼暴排条例についての意見を書く。先ずヤクザが暴力団と言われるようになって久しい。昔は当局の了解の下、或いは通々という関係で、しかもその地域レベルの組織だった。それが戦後縄張りを持たない組織がどんどん全国的に進出し、肥大化した。
縄張りの中に生きるという事は任侠精神を重んじ、地元を守るという意識が強いので、それなりのルールは守るし、当局との関係も悪くはない。だが余所者は、地元とつながりがないから、愛着も無いし、無茶もする。この辺がヤクザから暴力団に変更したキーワードである。
しかも掟を守ろうとするヤクザは何でもありの暴力団に次第に圧倒されてゆき、やがて吸収され、飲み込まれた。組織力、経済力は勿論のこと、政治力まで持つようになり、一地方県警のレベルでは対処できない程までに力を付けた。
何度かの壊滅頂上作戦を打ち出すが、一過性のもので、一度解散しても直ぐに復活する。復活するには理由がある。男には雄の本能としての闘争心がある。大昔から強さに対する憧れがある。人間は動物ではない、社会にはルールがある、とおっしゃる方もいるかも知れない。それは自惚れと理想論である。人間は間違いなく動物より知能で進化したかも知れないが、本能的なものでは一緒である。食物連鎖の中で人間も生きている。最後には力に頼ろうとする。一人の抜きん出た力のある者、魅力のある者が現れたら、その者を中心に人はまた群れを作るのである。
県単位で切れてしまう横の繋がりがなかった警察が、縦横無尽な拡大を見せた暴力団についていけなかったのは事実だろう。日本の資本主義、民主主義はアメリカを模倣している。優秀な国を模倣することは悪いことではない。しかし全てを模倣して大丈夫だろうか。
いい所の一部だけを見習うのはいい。アメリカには殆ど歴史はないし、最初から多民族国家だった。最初から合理主義でスタートした。対して日本は島国であり、長い間単一国民だった。その中から文化としてヤクザが生まれてきた。悪代官や悪徳問屋の手先として生きたヤクザもいたろうが、巨悪権力に立ち向かうヤクザもいた。吉良の仁吉も国定忠次も清水の次郎長も日本人の男が憧れたヤクザだった。そのヤクザの後継者達が全て引っ括めて暴力団では余りに悲しいではないか。
確かに警察力が取り締まれない程、肥大化した暴力団にも責任はあるが、更生、指導できずにただ利用だけしてきた政府に問題はなかったのか。社会に馴染めない「ならず者」は何処にでもいる。それを引き取って力で押えてくれていたのがヤクザの親分だった。彼等の食い扶持を取り上げてしまえば野に放たれた虎になるのは当然ではないか。
しかも取り上げた食い扶持が国庫に収められたのならまだしも、取り締まり側の利権になったのではおかしいではないか。
日本人の場合、アメリカの合理主義、キリスト一神教と違って、人々の繋がりが縦、横、斜めと色々な柵になっている。線で切れない関係なのだ。神様だって八百万もいらっしゃるではないか。こんなに神がいる国なんて、世界中探してもないだろう。そんな文化を持つ日本にアメリカからゴリ押しされたような条例を作っていいのか。
福岡は独特の土壌があるので、福岡県で条例が作られたのは理解できる。それが何故、条例として各県へ指導していく必要があるのか。全国に施行が必要なら国会で論争すればよい。
外国では暴力団の存在そのものを認めていない。だから条例の施行も理解できるが、日本では結社の自由を認めている。暴力団そのものを本気で壊滅させようと思えば、憲法を改正し法律を作るのが、先でなければならない。
公共事業に入れないようにして資金源を断つのはいい。オレオレ詐欺の奴等に銀行口座を作らせないのはいい。だが電気、水道の引き落としのための口座や家族への振込口座まで止めることはなかろう。街にも住むな、友人とも会うな、飯も食うな、クソもするな、何処に追い詰めるつもりだろうか。
元々、差別や貧困がヤクザを産んできた土壌があるのに、また差別に戻るのだろうか。それとも当局の狙いは肥大化した組織を分散、弱体化させ、昔の任侠組織に導こうとしているのであろうか。確かに暴力団を利用して、権力を維持しているような輩はいる。そういう輩にも網をかけ、暴力団との決別を促し、資金源を断つというのが狙いなのは分るが、基本的人権まで奪ってしまうのは如何なものか。
日本の差別に対する文化は「村八分」である。嫌われ者、ならず者に対して、十ある日常生活の必要項目のうち八つを村民は付き合いしないというお仕置の罰を与える一方、火事と葬儀だけは手伝いをするという人情を残した。これが日本人の心情である。血も涙もないアメリカ型の全ては日本の風土には合わない。
キャリアと呼ばれる頭のいい奴等は机上の理論と先端技術、先進国民主主義が全てと思い込み、人をゲームの駒のように操り、動かそうとしているが、人には血が通い、感情もある。しかも人は百人百様である。人が作った法そのものも完璧ではないし、自分の行動こそ正義と思っている人も少なくない。
何も暴力団を擁護するつもりも無いし、犯罪は厳しく取り締まって欲しい。法律でカバーできない新しい犯罪が出てきたら法律を作ればいい。但し法律は国会で議論され作られるもので警察が作るものではない。一行政が法律を作れるようになると、どの行政も自分の都合のいい法律を作ることになろう。特に逮捕権を持つ警察に法律を作らせたら官権を持った官憲になってしまうだろう。
犯罪抑止力には厳罰化が最も効果がある。これをやったら懲役三十年です、五十年です、となったら大抵の人は犯罪実行に躊躇するだろう。勿論、それでも実行する確信犯的な者もいよう。しかしそれは一握りであって(頭のおかしい奴は別)、犯罪は確実に減る。
但しこれはある程度、豊かな日本で日本人を対象に言えることであって、貧富の差が激しい中国や北朝鮮のような国から逃亡してきた密航者、犯罪者には通用しない。
外国人犯罪者は店頭に置いてある自販機を見て、「日本では道にお金が落ちている」と思うそうだ。国の文化、民度、風土によって、犯罪に対する認識は全く違ってくる。その恐い外国人犯罪者に犯罪をさせない睨みを効かしていたのが、暴力団と呼ばれる前のヤクザ組織だった。
今では外国人犯罪者と組んで犯罪を犯す者もいるが、大抵は破門者である。暴力団の行く末を指導しないまま、追い込み続ければ、今後、破門者、脱退者は益々増える一方でより凶暴化してゆくだろう。アメリカ型民主主義を模倣して来た為、ヒッピー以上の若者が増え、凶悪犯罪は百倍に増えた。一生に一度もないような田舎町でさえ、平然と殺人事件が起こるようになった。これが日本が目指している日本の未来像だろうか。
暴力団を志す者は、本人が覚悟して生きていることだからいいが、その周辺者、密接交際者の線引きが曖昧で、当局の匙加減になっているところが恐い。権力に物言う者を全て反社会人と一括りにしてしまう危険性もある。
憲法は何の為にあるのか。犯罪に触れない範囲の結社は、今の日本の憲法で認められている筈だ。同盟国アメリカから排除を言われたとしても、日本は独立した国家であり、押し付けられたとはいえ、憲法も存在する。憲法は解釈は自由だが、遵守するものである。その憲法を国民に守れと言いながら、御上が捻じ曲げていいのだろうか。
国民は法の下に平等である筈だ。それは犯罪者にさえ言える。犯罪者は犯した罪に対しては法の下に裁かれなければならないが、それ以外では生きる権利はある。ましてや暴力団と言えども全てが罪を犯している訳ではない。
生きる権利まで奪うということは、犯罪を犯してしまった犯罪者よりも悪人ということになる。それならやはり憲法改正が必要だろう。結社や集団に対する規制をかける法律を作るべきだ。
犯罪者に対して、警察が強くなることは多いに結構である。しかし憲兵のような警察の姿を国民は望むだろうか。暴力団に対する姿勢と同じ位、政治家や外国人、宗教団体にも物を言って欲しい。