社主の独り言(甘口)

(敬天新聞10月号)

▼前回に続き韓流を書いてみる。今のところ韓流ブームは留まるところを知らない。日本の芸能人の薄っぺらさに比べて、一人一人の実力度が違うのである。例えば日本のグループで言うと、「おニャン子クラブ」、「モーニング娘。」、「AKB48」というのが過去の代表だろうけど、ただ可愛いという女の子の寄せ集めにしか見えない。

 中に特別な才能を持っている娘もいるにはいるだろうが、大半がバカ丸出しのような娘である。最近は物を知らない、漢字を書けない、九九を言えないようなことを売りにしているタレントまで出てきて見ているこちらが恥かしい。
 対して韓国のタレントは大学まで行き芸能を専攻し、卒業して尚専門学校に行くという。また若くして人気のある者も大学までは出るのが常識という。しかも男は必ず軍隊に行き、そこでみっちり祖国愛精神を身体で教え込まれる。

 日本の場合、男性の少年タレントは何故かジャニーズ事務所が独占している。優秀な少年もいるが、実力よりも可愛子ちゃんが優先なのは明らか。見る芸能界においては美男、美女は基本だろうから、当然である。
 昔の日本の銀幕スターは本当に美男美女で手の届かない憧れの人だった。それがテレビ時代になり、スターが足りなくなり、粗製乱造されたのだろう。要するに現代のスターは安っぽいのだ。誰でもスターになれるチャンスがあるという意味では民主主義の良さかも知れないが、他国と比べられた時、その実力のなさに恥かしくなるのである。

 例えば私の好きな韓国ドラマ「朱蒙」を見ていて一番感心するのは、出演者全員が馬に乗れることである。日本の場合、「暴れん坊将軍」では主役の松平健が乗れるぐらいで、他は殆ど乗れない。大抵は遠くから写しスタントマンを採用している。「朱蒙」では女性のソソノも乗れるのだ。それも馬上のシーンだけでなく、地面から馬に跨るシーンも撮っているが、間違いなく本人が一人で跨っている。私も馬に乗ったことがあるが、乗って一人で操ることも大変だが、その前に一人で地面から馬に跨るのは大変なことなのである。相当の訓練が必要である筈だ。そういう物語の基本的なところから学ばせてある。
 今、韓国ではドラマやタレントも国策として海外に売り出しているそうであるが、それだけ国として自信があるということだろう。対して日本の場合、国策として売れるタレントがどれだけいるだろうか。
 一部には勿論実力者もいるだろうが、原宿辺りでスカウトして直ぐ写真集を出し、もし売れたりしたら次の日から歌手になったりタレントになってドラマの主役さえ演じるのだ。二〜三年も経てば、本人までスター気取りでその気になっている。こんなスターが日本にはゾロゾロいる。これで見比べられたら芸能人の学問率の高い韓国には勝てなくて当たり前なのだ。

 先日、地方へ行ったら地方のおばさん達は追っ掛けこそしないが、ここでもしっかり韓流ドラマに嵌っていた。只おばさん達は韓流ドラマに嵌ってはいるが、魂までは売っていない。竹島の話になれば、やっぱり堂々と日本の領土だとハッキリいう。この辺が今の若者の韓流と内容が違うのだ。要するに教育なのだ。
 高齢者の人は学問に対して、今の若者程恵まれていなかった。その分親子の情、家族の情が強かった。貧しい時の方が夢や目標がハッキリしてるし、家族全員が同じ方向を向いているのだ。今日本で成功している中に多くの在日出身者がいる。これは若い頃の苦労が実ったという証拠だろう。世の中の定めの一つにある盛者必衰、隔世遺伝というのは歴史が証明している。地震、津波、原発。この時代だからこその重なり合った災難。やはり驕り昂ぶった日本への警鐘ではなかったか。

 韓国では人気タレントが韓国産兵器の売込みにまで参加するという力の入れようである。国民性が違っても政治手法が違っても勢いのある発展途上の国というのは、目標も方向も国民と一致するのである。日本で言えば、東京オリンピック前後から三十年くらいかなー。芸能界では結婚したら人気が落ちると人生を犠牲にしてまで歌一筋に生きるというのが、主流の時代だった。
 千里の道も一歩から。三歩進んで二歩下がる。そんな堅実な歩みを日本人はいつから忘れたのだろう。力強い前進を続ける韓流に日本人は自分達の昔をダブらせて眺めているのではないだろうか。

▼秋彼岸に、縁のあるお寺にお参りに行った。和尚さんの話はいつ聴いても心に響く。三十一歳で亡くなったお医者さんが書いた詩「当たり前」という話だった。私達は普段目が見えること、耳が聞こえること、鼻で匂えること、口で話ができ、食べ物を食べられることを当たり前だと思っている。当たり前だと思っているから感謝もしない。本当は健康に生まれてきたことを神様、仏様に感謝し、両親に感謝しなければならない。
 人は物を無くして初めて、その有難さが分るのだ。今まで当たり前に思ってきたことが当たり前じゃなくなった時、初めて当たり前だった時の幸せを感じるのだ。平凡であることが、つまらなく感じた変らない日々が、本当はとってもいい日だったと思えるのは、病気になったり、事故にあったりと日常にショックが起ってから始めて気付くのである。年寄りの話を素直に聞いていれば、何でもないことを間違ってしまうのだ。

 日本では祭日が一年間に十五日ある。その中で彼岸は二回祭日がある。それだけ国としても彼岸の意義を尊重しているということだろう。お寺に御参りに行く人達の多くは年配者である。先祖を供養し、伝統風習を守っているのも年寄りなのである。文句を言わず我慢するのも年寄りである。
 子供が国の宝なら、年寄りは国の心臓だろう。年寄りなくして国は成り立たない。国はもっと自信を持って祭日の意義を強調し、国民へ実践を啓蒙すべきである。神や仏を前にして正座すれば父や母を思い出すし、そのまた先祖に思い至り、国への感謝も自然に湧き出てくるのだ。

 私はお参りをすると、何故か涙が溢れ出てくる。何を思い浮かべるわけでもないのに。全てをお見通しの神仏の前では何も隠せないし、生かされている小さな自分の現実を知り、素直になれるのだろう。何より自分が生まれてきたこと、今あることが一人で成ったことではないことを再確認できるし、改めて感謝を感じることができる。
 宗教をビジネスにしているような新興団体や不安や不吉を煽って法外な金を取る占い師や呪術師の部類は感心できないが、神仏の前で手を合わせる御参りやお墓参りは心に安らぎを感じ、誓いを改めて感じ、反省、感謝を教えてくれる。宗教は本当は人の根幹を成すものかも知れない。本義とは異なるかも知れないが、宗教戦争というものは存在するし、人を殺すという究極の心理まで到達することさえ可能だ。これを単純に是か非かでは問えないところに宗教の難しさがあるのだ。

 日本の場合、生活に密着しているわけでもないし、そこまでの真剣さはないが、間違って学べば恐いものであることはオーム心理教が証明している。日本の宗教はやはり習慣的宗教レベルで先祖供養や八百万の神への感謝ぐらいに留まった年二回の彼岸供養、お盆供養、年忌法要くらいが理想なのである。
 癒やしやゆるキャラが好みの日本人には、とてもイスラム教やユダヤ教のような厳格な戒律にはついてゆけない。日本人の本来の姿は戦いを好まない穏やかで優しい真面目な国民なのである。

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