社主の独り言(辛口)

(2010年12月号 第160号)

▼もう今年も終わりである。今年はいい年だったと言う人が果たして何人いるのだろうか。少なくとも私の周りにはそういなかった。日本中探してもせいぜい宝クジに当ったとか子供が志望大学に通ったとか、いい人に巡り会えたとか言う、僅かな人たちだけだろう。今年程、暗く活気のない年もなかった。
 恐らく民主党が政権を執ったことに起因しているのではないか。菅総理の最小不幸社会論なる暗い後ろ向きな発想も関連している。市民運動家は目の前の弱者救済には役立つところがある。だが国家として或いは全体像として物事の本質を洞察できない欠点がある。
 政権を担う政党やそのトップには国と国民の生命財産を守る責任と義務がある。野党時代のような無責任な何でも反対や揚げ足取りだけでは駄目なのだ。
 自民党時代の終焉時は確かに酷かった。その検証はどんな正義感を持ってしても、自民党では精査出来なかったろう。政官財の癒着は一朝一夕で出来る物ではなく、また政治を商売と考えている輩がごまんといる政界で一握りの清廉潔白の士が正義を訴えたところで踏み付けられ蹴飛ばされるのが関の山だったろう。
 大半の人は力のある所になびいて行く。民主党が政権を執れば、民主党になびく。それは仕方がない。政権を取るということは全ての財力と許認可権と予算権を握ることになるからである。
 小沢一郎を見ていれば、日本の政治家の本質が見えてくる。政治家以外に何も仕事をしてこなかったはずの人間が、勤めた年数の歳費を全て使わなかったとしての合計金額より遥かに多い現金を持っているのだ。この摩訶不思議な現象を誰も問わない。小沢だって若いうちからそうであったわけではなかろう。若いうちは希望に夢膨らみ大志もあったろう。それが長い年月の中で世の中の業や煩悩といったものに飲み込まれ、蔓延化し麻痺してゆくのである。
 悲しいことではあるが、これが人の弱さである。どんなに修行をしても、どんなに徳を積んでも、人は神や仏にはなれないのだ。一瞬ならなれるかも知れない。いや、世の中にはこんな人がいるのかと思えるような愛や優しさを持った人もいる。しかしそれは、そこら辺でその人達にだけ通用するもので、こと政治に関しては十人十色の全ての人に影響を及ぼすわけだから、必ず犠牲や悪影響を被る人は出てくるのである。
 民主党は無駄を省けば、それだけで充分予算が出てくると言ったが出てこなかった。確かに自民党時代の官の箱物作りは無駄が多かった。いらない飛行場も多く使った。その無駄で儲けた政官財癒着が相当あったのだろう。長く政権が続くと、起こりうる現象である。レベルこそ違うが、地方も同じだ。
 民主党はまだ政権を執って一年だから小沢を除けば官財との癒着は少なかろう。しかし何年かすれば癒着は必ず起こる。自民党と同じ様なことをするのだ。どうせ同じ癒着構造になるなら、まだ保守護国の気持ちのある自民党の方が民主党よりはいい。それは分っているけど自民党の支持率が上らない。
 一年生議員の小泉ジュニアや蓮舫か辻元清美の物真似みたいな丸川珠代辺りを広告塔に使うようじゃ、能力の限界としか思えない。政治は芸能界やショーとは違う。常に国民の権益に直結している生活そのものなのだ。政治家は当選さえすれば自分たちは食える。当選する為には嘘も言う。これは昔から変らない。
 議会を見ていると腹立たしいことがよくある。ヤジを飛ばすのもそうである。全くヤジが必要ないものにまでヤジを飛ばす。あんな現実を子供に見せて、どこの子供が大人を尊敬するというのか。安っぽい政治家の出現こそ道徳崩壊に繋がっているのだ。民主党は政治主導という言葉を勘違いしている。政治家が何でもやる、という意味ではない。頭の悪い政治家に何が出来るというのだ。政治家がみんなやるなら官僚は要らなくなる。
 政治主導とは官をしっかり見張れ、官財の癒着を許すな、政官の癒着をするな、官の嘘を見抜け、騙されるな、官をしっかり指導しろ、ということである。それを官能の優れた集団に「先生」と煽てられ、そのうち玉を握られ、宦官にされてしまうのである。政治家に比べて官僚には歴史がある。策略、戦略にかけては遙かに長けているのだ。その官僚に対して政治主導なんていうことは、そんなに生易しいものではない。彼らを握るには公的拘束力や厳しい罰則規定以外には主導は難しい。
 しかし、民主党の嘘には呆れた。小沢、鳩山の汚れた金コンビ、何もできない菅のビッグ3+ワンの日教組輿石と、中国からの派遣社員の仙谷。いずれ劣らぬ赤い売国奴の馬脚を表してきた。これらが舵取る嘘つき集団民主党には一日も早い引退を勧告しなければならない。景気が悪いと全ての運気まで下ってくるのである。

▼詐欺師や泥棒が多い世の中になった。それに人を騙すことに恥ずかしさや躊躇が無くなった。平然と毅然と詐欺を行うのだ。三千年近い歴史の中で、日本人が日本人として誇りと名誉を一番意識しなくなった日々だと断定してもいいだろう。物欲、金銭欲至上主義で金さえ持っていれば人はなびく。金の質は関係なく、金を持つことこそが大切であるという考えが蔓延しているのだ。
 武士は食わねど高楊枝。武士とその妻その子供という誇り高き家系、名誉ある家柄というものが消えてしまった。商人の前に平伏してしまったのだ。商工農士になってしまったのだ。正しい商工農士ならまだいい。最近ではその商の中に詐欺師や盗っ人が紛れ込んで来ているから始末に困るのだ。
 昔から詐欺師は頭は良かった。人を騙すわけだから、話術に長け、相手以上の能力を持たなけりゃならない。しかも当局に訴えられた時の当局に諦めさせる手当てを講じておかねばならない。詐欺師にはそういうプロが多い。今の詐欺師にプロは少ない。単に騙して金を取る。後先のことは考えていない。捕まっても恥ずかしいという自覚がない。ジャパンドリームを実現する手段の一つぐらいしか考えていないのだ。
 村八分や差別がなくなってきたからかも知れない。村のシキタリや慣習の中には戒めと共に倫理、道徳も含まれていた。外国人の場合、生活に宗教が密着しているから、子供の頃から善悪がハッキリしているし、金を持ってもボランティアに使うことを心得ている。宗教が生活に根付かない日本では義務教育の中に倫理、道徳を入れなければ心の中に根付かないのだ。
 伝統ある宗教はともかく新興宗教の殆どが宗教というより、宗教に名を借りた商売なのである。他宗教のいいとこ取り、ゴチャ混ぜで教義も寄せ集めである。自分から信仰するというより強引な勧誘により嫌々従々から始まる信仰なのである。宗教そのものは素晴しい。人生の全てが集約され、学ぶべき全てが集約されている。問題はそれを説く人の姿勢である。人を殺してはいけないと教えている筈なのに宗教戦争は終らない。煩悩は捨て、欲はかくなと教えているのに金ばかり集めるところもある。人はかくも凡愚なのである。
 日本人の能力の高さは世界中が認めている。昔から猿真似と揶揄されたが、これだってアメリカが作ったものを真似て作り、やがてそれを凌駕した。先進技術分野では全てが世界のトップクラスだ。国民は疲弊しているが、外国へは金をバラ捲き続けている。ええかっこしいなのか、余裕があるのか知らない。それなのに恫喝され、侵犯されている。
 坂本竜馬は大政奉還を土佐藩主山内容堂を通じて徳川慶喜に直訴する時、その裏で万一に備え、銃を用意した。失敗したら相手の首を取り自らも死を覚悟した。その心構えこそ必要なのだ。
 詐欺師や泥棒が多くなった世の中はその対極にある。日本人が忘れたもの、失ったもの、今最も必要なものを一つだけあげよ、というなら、それは間違いなく武士道精神だろう。
 本年も一年間御愛読有難うございました。来年が皆様に取って、運気万全な年になるよう祈念申し上げます。白倉康夫拝

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