社主の独り言(辛口)

(敬天新聞3月号)

▼最近、世の中の乱れに嘆く人は多いと思う。特に昔から聖職と言われる様な立場にいる人の倫理観の無さに呆れるのである。弁護士を聖職というのかどうか知らないが、普通の人以上に高い倫理観が必要なのは事実だろう。その弁護士の非違行為が非常に多いのである。
 弁護士芸者論という言葉があるそうである。芸者というのは表向き、芸を見せながら稼ぐ。芸の中には、唄、踊り、楽器演奏、話術、美貌も含まれよう。所謂、一般の人には無い専門職の立場でお客を喜ばせる技術を持ち合わせながら金を稼ぐのである。表向きは。しかし、一歩裏に回れば、いい客が現れたら、さぁ大変。取った取られたと枕芸者に早変わり。踏んだり蹴ったり噛みついたりが現実なのである。
 今、テレビで話題の筆談ホステスという銀座のホステスの頓知力を取り上げているが、この女性が男の名を明かさぬ子を妊娠しているが、この話も男が誰かとか、生活費を貰っているのか、とかいう方向に焦点を当てて行ったら全く違う印象に成ってしまう。
 一つの話も何処に焦点を当てるかで、全く違う印象に成るのである。伝説の人として取り上げたり、成功者として取り上げる時、その良い(見せられる)部分だけを公表するが、その裏には必ず汚い部分も表裏としてあるのが現実なのだ。
 弁護士と依頼者の関係は紙切れ一枚の雇用関係だから、いい客を見つけたら横取りする事も可能らしい(一般的にはしない)。
 民事の争いは債権債務の取りっこだから法律を悪用すれば、優先的に差し押さえる事も可能だし、素人を騙す事もできる。依頼人をそっちのけで、弁護士同士で結着してしまう事もあるらしい。そういういい話を見つけた時、その当事者を唆して前任者に「解任届け」を送り付けさせるのだ。それだけで弁護士と依頼者の雇用関係は終ってしまうのだ。私の周りにも、そういう汚い弁護士がいるが、非違に目に余る物が出て来たら、そのうちに叩こうと思っている。
 弁護士も所詮芸者なの?と理解すれば許せるが、まだまだそういう輩は一握りで、やはり圧倒的に真面目で正義の法律家は多い。その為にも悪党弁護士退治は必要なのである。弁護士も人間だから、と言ってしまえばそれまでだけど、法律を知り尽くすという素手の中で最高の武器を持っている為、悪用されると太刀打ち出来ない。そういう時は人間も所詮は動物だからという、敬天理論で行くと、意外と弱点が見えてくる物だ。
 相手が権力者であろうが、弁護士であろうが、勝つ方法はありますよ。全てを捨てて命を賭けたら必ず勝てます。勝てないのは貴方に迷いがあるから。

▼右翼という酔狂な生き方をしている人達は多分に任侠的な一面を持っている。或いは犯罪性を持っている、と言ってもいいかも知れない。天下国家を訴えながら、より強い影響を与える為に時に肉体言語と称した世間の常識では計り知れない行動を起す。
 基本は尊皇愛国である訳だから、本来、世の多くの人達に支持されて然るべきであるが、現実はそう甘くはない。理由は加えて、反共、靖国神社国家護持、神道崇拝と段々専門的に成って来る為、門が狭くなり、偏って来るからだろう。しかも所属する団体や系列によって、発言も異なったりする場合もある。
 しかし今回の小沢一郎の皇室軽視発言に関しては、右翼・民族派に限らず、国民が一致団結して怒りの声を挙げている。小沢が虎の尾を踏んだからだ。
 日本人は国民性なのか中々本音を外では言わない。皆の意見を聴いた後でソロソロと言い出す。一人違った意見を言う事を恐れるのだ。
 昔から各地に風習として残っていた村八分制度などの怖さが遺伝子の中に知らず知らずのウチに染み付いているのだろうか、逆に一度噴出すると一気に動き出す特徴を持つ。しかし瞬間であって直ぐに収まる(忘れる)のであるが。祭りの神輿を担ぐ、あの熱気と一気のタイミング。あれこそ国民性の代表だろう。選挙では「風」である。風を起す上手い人がいる。誉める時には軍師というが、裏がある時には策士と呼ばれたりする。小沢一郎が軍師なのか策士なのか分らぬが、あの思想がバラバラの民主党を一本化し、独裁化した手腕は見事だ。
 一党支配や多選には必ず癒着を始めとした弊害は起るし、制度が時代に合わなくなる事も起きる。日本人の理念として永久に持ち続けたいものもあれば、時代と共に変えて行かなければならない物もあるだろう。だから護権護権としがみつくよりも時代と共に改憲が必要なのである。ただ民主党の野党時代との変り様に国民は驚いている。
 鳩山総理のあの指導力の無さ、遠慮のある物言いは何なんだ。八方美人という言葉が日本語の中にあるが、この人の場合百方美人と言える程の気の使いようである。
 気の合う人を友達というが、友達の友達の友達の友達と繋げて行くと、いつか気の合わない人に繋がって行くかも分らない。そして大嫌いな人に繋がって行き、また無理して繋いで行くと気の合う友達に繋がって来たりする。宇宙では無限という果てしない繋がらないずっと先があるらしいが、地球上では右手を繋いで行けば、いずれ左手に帰って来る。
 右側を見てても、究極は左側も見ているのだ。結局、世の中は右だろうと左だろうと我が人生に悔いはなし、ってこれが一番じゃないですかね。

▼日本では正当防衛という言葉はあるが、現実には中々評価されない。良くて過剰防衛、殆どが犯罪になる場合が多い。先日、どこかで暴走行為をしていた一団に車で突っ込んだ者がいて、相手が死亡した事で殺人で逮捕されていたが、その犯人となった者の心情は理解できる。私も何度か遭遇した事があるが、木刀やバットを持って周囲を威嚇しながら信号無視して走る暴走族を見れば、血の気の多い人は突っ込みたくなる。
 仮にこちらから仕掛けなくとも、相手から攻撃されれば、車で突進するしか方法はない。恐らくこういう時、逃げれば大抵相手は追い掛けて来る。逃げ切れればいいが、こうして残念なうちに非業な死を遂げる人も多い。それならせめて一矢報いるべきだ。こんな時、汝左の頬を打たれたら右の頬を出せ、と言ってる場合ではないのだ。逃げ切れるなら逃げてもいいが逃げ切れない時もある。緊急避難的には戦うしかない。多少腕に覚えがあっても「我こそは…」と能書きを垂れてる場合ではない。一瞬の判断で雌雄を決しなくてはならないのだ。
 あの暴走行為を殺人未遂罪位で捌いてくれるなら溜飲も下るが、ただパトカーが追い掛けてるだけでは本当に頭に来る。
 道徳の荒廃が進み、倫理観が欠如した現在に於いては、若者の暴走は一段と激化している訳だから「市街戦」は日常的に起る危険性がある。
 私は自己防衛の手段として車に棒切れを載せていて何度か軽犯罪で注意された事があるが、それでも弱者には自己防衛を奨める。基本的には自分の命は自分でしか守れないからだ。例え棒切れを持つ事が軽犯罪や過剰防衛に問われても無防備で命を落とすよりはいいではないか。

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