(2011年01月号 第161号)
▼あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
年が明けたから、おめでとうございます、と口上は述べたものの、年と共に大志のような夢がなくなり、何か現実的な夢ばかりになって淋しいね、という齢になってしまった。アメリカの実業家サミュエル・ウルマンの「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」という言葉も、心に張りがある時は、その通り、と思うのだが、借金に追われ、病院通いが日常になったら、何か空しく聞こえるね。
この詩を最初に目にしたのは日大のアメフトグランドの監督室だった。名物監督篠竹先生は横浜生まれが自慢な垢抜けた人だったから、こういう言葉が特別に好きだった。逸話の中には大袈裟な表現や虚偽も多くあったが、スポーツ監督としては超一流であったし、人間としては大物だった。当時私は三十代前半だったから常識でいう肉体年齢の青春ではなかったが、まだ元気ハツラツだったから、妙に「その通り」と思ったものである。当時の篠竹監督は今の私より十歳も若かったが、それでも十代後半から二十代前半の若者と日々を生活する為に「負けるものか」と自分を鼓舞していたのだろう。
夢の大小はあっても、価値観は変っても老年にも夢はある。少年のような弾けるような輝くような夢ではなくなって来たが、夢はある。たまたま実話ドキュメントに私の四十年前の話が出たが、振り返ればついこないだだった。どんな生き方が満足する生き方なのか、幸せな生き方なのか、途中では誰も分らない。人生には紆余曲折があり、幸不幸が交替にやってくる。本当に死の直前に幸がやってきて、ああー、いい人生だったと言って亡くなる人もいるだろう。だから今、馬齢を重ねてきただけの人生だったと悲観することはない。私も原稿を書き始めた時は壮、老人生の応援語である「青春の詩」を見ても空しく見えたが、今はまた励ましに見えてきた。その人の受取り方もその時の環境、状況によって、違ってくるのだ。生きていることが素晴しいことなんだ。生きていることで何かの役に立っている、誰かの役に立っているのだ。と思うことが大事だ。
話は変るが(私の場合はコロコロ変る)、一月一日の朝、起きたら左眉尻の下に突然イボのような物ができていた。最初は虫刺されかな?ぐらいに思っていたが。1pぐらいあるし、水ぶくれっぽい感じもしたが、どこかにぶつけた記憶もない。家族に話したら「還暦イボじゃないの?」とからかわれた。確かに今年は還暦を迎える年だ。老人シミは長生きの証拠と言って昔から歓迎される。だが「還暦イボ」なんて聴いたこともない。
病院に行ったら「一日でこんなに大きくなる訳がないですよ。気づかなかっただけですよ」と信用しない。中身はどうせ水分だろうと鏡を見ながら切ってみたが鮮やかな血が出てくるだけだった。正月元旦の授かり物だから縁起物のような気がして、かっこは悪いが暫らく育てて見ようかと考えている。今更、外見を気にする年でもないし、と言いながら何かと気になる。今年いい事があれば「還暦イボ」のお陰と感謝し、何もなかったら切って捨てようと思っている。人生神頼みになったら終りだね。そうでもないよ。神頼みしながら努力もする。一人で努力するより神様と話しながらの方が人生は力強い。法の下の平等なんかありゃしねーよ。何だい、この矛盾は?と言って怒ったり、ああやっぱり神は見てくれていたんだ、日本には八百万の神がいるから天網恢恢疎にして漏らさず、やっぱり小沢一郎のような泥棒は必ず捕まるんだなーと納得したり、がいいんですね。それにしても正月号なのに何か夢のない暗い話だねー。現実は厳しいッ。
▼知り合いの所に逞しい野良猫がいる。名を茶黒という。もう十年は生きているという。普通野良猫の場合、生存競争が厳しい為、せいぜい三、四年の寿命という。茶黒の処世術は媚を売る上手さに限る。兎に角、媚を売るのが上手い。初対面の人に対しても老若男女問わず近づいて行って擦り寄る。見た目は決して美人ではないが、あの甘え方に皆コロッと参るのだ。
ところでこの茶黒の凄さは出産能力である。恐らくもう数十匹を産んでいるらしい。小さい時はどこかに隠して連れて来ない。少し歩けるようになったら公園デビューである。しかし直ぐいなくなる。カラスや狸に襲われるらしい。オスは縄張りがあって余所者は苛められるそうだが、メスにはオスは優しいそうだ。ところで茶黒は近所の別の場所では別の名前で呼ばれ、そこでも子供を産んでいるらしい。何ヶ所か掛け持ちで家庭を持っているらしく、街では有名な存在らしい。
野良猫には家庭猫のような甘っチョロさは許されない。自分の器量一つで食う所を確保しなけりゃいけないのだ。家庭猫のように主人にだけ可愛がって貰えればいいと言うものでもない。常に敵だらけなのだ。そん中で自分も食べ、子供にも食べさせなきゃいけない。嫌な子作りを受け入れた時もあるかも知れない。それでも茶黒が選んだ生きるためだったかも知れない。これが人間だったら、とやかく言う人もいるだろう。だが生きる、生きて行く、という意味においては何か参考になるヒントがあるように思う。日本社会の子育てというのは、家庭猫のように見えないだろうか。今、日本人に必要な生き方は野良猫茶黒のような逞しさではなかろうか。
▼私は斎藤佑樹君が好きである。あのハンカチ王子である。あれから四年も経ったのに俺は何をしてきたのだ。馬齢を重ねて来ただけである。それに比べて斉藤君は成長した。しかも爽やかさは少しも錆びれていない。むしろ輝きを増している。大学時代にハニカミ王子が台頭してきて主役の座を奪われた感もあったが、その天狗にならない清々しさが大天晴れであるが、斉藤君の所作と言動の全てに◎を感じるのである。
あの「持ってるもの」が「仲間です」と答えるところなんぞ、俺なんか二晩考えても出てこないねー。勿論、斉藤君の持ってるものは才能であり、運であり、センスであることを国民も周囲も分っている。それでも自分の口からは言わない。
「持っている」は、イチロー選手が四打席ノーヒットが続いた後、最後の打席で逆転ヒットを打って勝利を収めた時の言葉だった。
昔、力道山が外国人選手にやられるだけやられて、最後の最後に空手チョップで相手を倒す試合に似ていた。力道山の場合は予め筋書きがあったが、イチロー選手の場合には、筋書きはない。しかも相手は日本との試合になれば、数倍力を発揮すると言われている韓国だった。予選では負けていた。新聞が一番書きたかった通りのシナリオをイチロー選手が創ったのだ。本人は半分冗談で「持っている」を使ったのだが、イチロー選手なら自分で本気で使っても誰も否定はしない。ただ日本人は自慢を嫌うので、これだけの実力者でさえも本気で言ったらどう評価が変るか分らない。
その次にサッカーの本田選手が使った。彼の非凡さも衆目の一致する所。だが本田選手の場合は、冗談がイチロー選手より少なかったように見えた。あの大舞台で決めるのだから持っているのは事実である。だが実績から言うと、もう少し冗談の入った「持っている」発言の方が日本人としては合うだろう。斉藤君は創部百年目の主将である。そして五十年ぶりの優勝だった。こういう節目は偶然としてしか巡り合わない。そして勝つ。今ではパリーグの売れっ子になったマー君にも二度対戦して二度勝っている。才能、技術ではイチロー選手に肩を並べられる者は誰もいないが、巡り合わせも含めた「持っている」ではイチロー選手を凌ぐのではないか。イチロー選手自身が言ってるように「俺なんか何を言っても嫌味に聴こえるけど、彼は何を言っても許される」のである。だがイチロー選手の言う通り、そういう風に聴こえるのは、斉藤君の持つ人徳と爽やかさが基本になっている。
日本人が好感を持つ男の代表的な存在である。礼儀正しさもいい。俺も実話ドキュメントの話後に短い期間ではあったが「持っている」と言われた時期があった。あれから幾星霜、一応今も持っているものはある。自分で言うのも憚るが借金と腰痛と糖尿病である。若い時は「持ってる」人がかっこよかったり、年を取ったら「持ってない」人が良かったり、人生とは複雑である。